最近、何を言語化しようとしても140字制限のツイート作成画面を前提として考えてしまっていることに気付きました。

↑こういう簡潔でちょっと抽象的で乱暴な主張がまさにそう

私は生命のような複雑なものと、素粒子のようなシンプル(であるべき)なものの両方を忘れずに考え続けていきたい。つまり"More is Different"と"Less is Essential"の両方を大事にしていきたいわけですが、どちらにしてもそれらを言語や数式によって記号化するときの形式は、考える対象以上に本質的意味を持ってしまうことがあります。

例えば生命の認知能力について考えるとき、仮に認知とは〇〇だ!といった結論が得られたとしても、そもそもその結論って君の認知能力の上での結論だから循環論法だよね、となってしまうわけです。(ここで「循環論法だよね」と言ってくるような奴が存在できなくなるところまで論理の螺旋を降りて行ったところにあるのが「我思う、故に我あり」)

素粒子論にしてみてもそうで、万物の理論は数式で書き表されることが前提になっているけど、その基礎にある数学の体系が無矛盾であることは証明できないし、微分積分をはじめとした数学の一部の分野はそもそもが物理学のために発展した歴史もあるわけなので、独立にその正当性を担保できないのです。もしかしたら数学ではなくて全く別の記号体系がこの世の現象の記述に最も適していた可能性も無くはありません。(それは絵画や彫刻のような美術の体系かもしれません。)

このように記号によって何かを書き表すという作業においては、その形式自体に一定の検討を挟まなくては真理探究とは呼べません。しかし、私はまさにツイッターというメディアの形式に無意識のうちに依存してしまっていたのです。これはまずい。あと普通に曲進んでなくてまずい

というわけでツイート作成画面から一度離れて生活してみることにしました。いつまで続くかはわからないけど、とりあえずこうやって個人サイトに長めの文章を書いて記事URLだけXに共有する形で、長文を書く練習をしていきたいと思います。よろしくお願いします。

今気付いたけどこの記事の段落全部1ツイート分くらいの分量になってて怖い。毒されすぎ